「加瀬くん がなにか言ってます。」

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「加瀬くん がなにか言ってます。」

「心のために」と言われています。

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ハヤシ工務店 広報の牧師担当 加瀬です。

先日、身内の結婚式がありました。
そういえば、物心ついてから結婚式に出席するのって、もしかすると初めてだったかもしれません。

もちろん、写真や映像で見たことはありましたが、自分の足で歩いて、椅子に座って、場の空気を浴びる体験というのはやっぱり違いますね。

新郎新婦はすでに入籍済みで、書類上はもう立派な夫婦。
でも実際に式に立ち会ってみると、「ああ、これでようやく“精神的にも夫婦になったんだ”」という感覚が自分の中でも湧いてきました。
不思議ですよね。儀式を通すと一気に“腑に落ちる”。

あれは、きっと当人たちにとっても同じなんじゃないかと思うのです。

儀式が“現実を追い越す瞬間”

結婚式って、事務的には何も変わらないんですよね。
昨日までと同じ家に帰り、同じ生活が続く。
でも儀式を行うことで、当事者の中にある“区切り”がはっきりと刻まれる。

なんというか、儀式って「現実の変化よりも先に、心の変化をつくる装置」なんじゃないかと感じました。
現実に変化を加えるんじゃなくて、意識の側を整える。
そして、整った意識があとから行動や日常を変えていく。

これ、よくよく考えると、家づくりにも似た場面があるんですよね。

上棟式という“家の誕生日”

家づくりの儀式といえば、やっぱり上棟式。
最近では「やらない派」のお施主様も増えてきましたし、合理的に考えれば「やらなくても家は建つ」。
実態としての変化は何も起きない……と言ってしまえばそれまでです。

でもですね。
私は上棟式を見るたびに、あれは「家の誕生日だな」と思うのです。

柱や梁が組み上がって、ようやく“家の形”が立ち上がったその日。
そこにお施主さんが立ち会い、棟木を見上げ、関わる職人たちと顔を合わせる。
その瞬間に、「ああ、いよいよ本当に家を建てているんだな」と実感が湧く。

これもやっぱり、実態よりも意識の方が先に変わる儀式なんですよね。

式が終わると、お施主さんの表情がほんのり変わります。
どこかちょっと引き締まって、誇らしげで、安心していて。
あれは儀式の効果なんだろうなと感じます。

地鎮祭という“土地に挨拶する行為”

儀式といえば、もうひとつ大切なのが地鎮祭。
こちらもまた、「しなくても家は建つ」の代表みたいな存在です。

でも、地鎮祭は単なる縁起担ぎではなくて、土地への挨拶なんですよね。
「この場所を使わせていただきます」「安全に工事が進みますように」
そういう願いを言語化して、形にして、みんなで共有する。

地面に竹を立て、砂山が置かれ、榊が並び……
ひとつひとつの所作は静かなんですが、あの時間を過ごすことで、施主も施工側も、同じ方向を向くことができる。

言葉にすると大げさに聞こえるかもしれませんが、あれは“覚悟のリハーサル”でもあるんですよね。工事が始まる前に、一度心を整えておく。
すると、そのあとに起こる大きな決断や判断にも迷いが生じにくくなる。
現場に足を運ぶ頻度が増える方も多いですし、家づくりに対する姿勢がぐっと前向きになる方もいます。

“実態を動かさないのに心は動く”という不思議

結婚式も、上棟式も、地鎮祭も。
どれも、儀式そのものが家を建てるわけでも、人を結婚させるわけでもありません。

なのに、確実に「意識」は変わる。
その意識の変化が、あとから実態をじわじわ動かしていく。

この順番がとても面白くて、人間って意外と“目に見えない何か”に寄りかかりながら暮らしているんだなと、しみじみ思うのです。

合理性だけを追求すれば、儀式は省略できてしまう。
でも、心の準備って合理的に処理できるものではなくて、“儀式”という少し手間のかかる行為がちょうど良い役割を果たすこともある。

先日の結婚式に出席してから、
「儀式って、人間が人間らしくあるために必要な仕組みなのかもしれない」
なんてことを考えてしまいました。

儀式は日常と非日常の境界線

儀式を終えると、何事もなかったように日常が戻ってくる。
でも、その“境界線”を一度またぐことで、同じ日常が少し違った顔を見せる。

私はこの境界線が、結婚式にも、家づくりにも、確かに存在するんだと思います。
紙の上で夫婦になるのとは別に、あの時間を過ごしたからこそ、本当にスタートラインに立てる。
家も、図面や契約ではなく、上棟の日に「私たちの家だ」と実感する。

儀式って、けっこうすごいんですよね。
心を“追いつかせる装置”として、ものすごく合理的でもある。

そんなことをぼんやり思いながら、
帰り道でひとり「人間って面倒だけど面白い生き物だなぁ」とつぶやいてしまいました。