もう28年以上も前のことになるが、
知人のアパートが中落合にあったため、大のポン友とよくそこを訪れた。
そこでポン友と何をしてたかは思い出せないが、
ひとつ鮮明に覚えているのはアパートの真向かいにフジオ・プロがあった。
子供の頃は、再放送で「ひみつのアッコちゃん」や「天才バカボン」をよく観ていたため
知人のアパートにいくと何気に赤塚不二夫に会えないかな~と想像した。
結局そこの場所で会うことはできなかったが、後に新宿の歌舞伎町ですれ違う。笑。
長い闘病生活の後に2008年に逝ってしまう。
タモリさんの「私もあなたの数多くの作品のひとつです」
で知られる白紙の弔辞は有名だ。
そして、赤塚氏の生涯は、本やドラマにもなり、
彼のハチャメチャ人生すべてがとても意味ある素敵な人生におもえる。本当だ。
そういえば、赤塚氏のアシスタントは全て独立して代表作を残した。
たしか、「釣りバカ日誌」の北見さんや、「総務部総務課山口六平太」の高井氏、
「ダメおやじ」の古谷さんなどなど・・・もっとたくさんいると思いますが。
これは本当に凄いことだ。
手塚治虫さんのアシスタントは誰一人独立して代表作を残せていないという事実。
そして赤塚氏が、
自分の優秀なアシスタントたちをどんどん「独立」させていったという事実。
「潔さ」に感服する。
弊社からもどんどん大工として独立していってほしいと夢を描くが
現実は、ほど遠い。
超有名大学や超難関高校からある建設会社に大工を目指して入社したいと
望まれる建設会社がある。
その数、大工はざっと300名。
その建設会社の社長の言葉で、「職人」と「大工」は違うと云う。
話を聞けば聞くほど納得する。
「大工」とは人(後の大工)を育てなければならない。
最近では一人親方と便利な言葉があるが、それはもはや「大工」ではない。
と言い切る。凄い。その社長に引き込まれてしまう。
つまりは、上にたつ人の人間性だろうか。
赤塚氏から独立していった方々も、色んな理由と考えがあったと思うが、
TVのインタビューや本では赤塚氏を面白おかしく懐かしみ、
そして「敬愛」していることがうかがえる。