「お祭りと儀式」と言われています。 – スタッフブログ

「加瀬くん がなにか言ってます。」

スタッフブログ

「加瀬くん がなにか言ってます。」

「お祭りと儀式」と言われています。

ハヤシ工務店 広報の御囃子担当 加瀬です。

少し前の話になってしまうのですが、今年も旭市七夕祭りに行って来ました。

お囃子や人の往来を見ていると、「ああ、夏だね」としみじみと感じます。

普段はそんなに意識することもないのですが、祭りの日になると、いつもの街が少しだけ違って見えるんですよね。

道路には人が増えて、普段なら車が行き交っている場所に屋台が並んで、どこからともなくお囃子が聞こえてくる。

子どもたちが走り回って、大人たちは何かを食べながら歩いていて、浴衣姿の人なんかもいたりする。

そして、なんとなくみんな楽しそう。

「今日は祭りだから」という、それだけの理由で、いつもの街に特別な空気が生まれているわけです。

こういう雰囲気って、やっぱりいいなと思います。

夏祭りなんて、別に毎日の生活に必要なものではありません。

なくても困らない。

でも、なくなってしまったら、きっと寂しい。

そう考えると、お祭りって不思議な存在です。

みんなでつくる「特別な空間」

そんな祭りの雰囲気に浸っていると、ふと「お祭りというもののすごさ」を感じました。

お囃子が鳴って、人が集まって、声を出し合う。

同じ音を聞いて、同じものを見て、同じ場所にいる。

それだけなのに、普段とはまったく違う空間が出来上がっているんですよね。

考えてみれば、祭りって「何か特別なものがそこにある」というよりも、「特別な空間をつくっている」という側面が大きいのかもしれません。

お囃子を演奏する人がいて、それを見る人がいて、声を出す人がいて、屋台を出す人がいる。

それぞれが役割を持って、その場に参加する。

もちろん、参加の仕方は人それぞれです。

積極的に盛り上がる人もいれば、端っこのほうで静かに眺めている人もいる。

私なんかは、どちらかというと後者かもしれません。

「おお、盛り上がってるなぁ」と少し離れたところから眺めている。

でも、それでもその空間の一員になっている。

そこが面白いところです。

祭りには、日常とは違う「スイッチ」のようなものがある気がします。

同じ街、同じ道路、同じ人たちなのに、その日だけは雰囲気が変わる。

人が集まって、音が鳴って、声が響いて。

それだけで「今日は特別な日だ」と感じられる。

こういう感覚って、よく考えるとかなり面白いものです。

家づくりにも「儀式」がある

そして、そんなことを考えているうちに、ふと家づくりのことが頭に浮かびました。

家づくりにも「儀式」があります。

代表的なものが、地鎮祭や上棟式です。

地鎮祭は、これから建物を建てる土地に対して、工事の安全を願い、その土地の神様にご挨拶をする儀式。

上棟式は、柱や梁などが組み上がり、建物の骨格が見えてきたタイミングで行われるものです。

もちろん、地域や会社、施主様の考え方によって、その内容や形式はさまざまです。

最近では、地鎮祭や上棟式を行わないケースもあります。

費用や時間のことを考えれば、「そこまでしなくてもいいんじゃない?」という考え方も、よく分かります。

実際、家そのものが建つことを考えれば、儀式をしなくても建物は完成します。

でも、それでもこうした儀式が今も残っている。

なぜなんだろう、と考えてみると、祭りとの共通点が見えてきます。

「区切り」をつくるということ

家づくりって、考えてみればかなり長い出来事です。

土地を探して、間取りを考えて、打ち合わせをして、契約をして、工事が始まって。

その間にも、決めることが山ほどあります。

壁紙はどうする。

床はどうする。

キッチンはどうする。

コンセントはどこにする。

照明はどうする。

……いや、本当に多い。

「家を建てる」という一言では片付けられないくらい、たくさんのことが積み重なって、一軒の家が出来上がっていきます。

そんな長い家づくりの途中に、地鎮祭や上棟式という「儀式」が入る。

これは単なる形式ではなく、ひとつの区切りになっているのかもしれません。

「いよいよここから始まる」

「ここまで来た」

「無事にここまで進んだ」

そういうことを、みんなで共有するための時間です。

普段の生活では、何かが始まった瞬間や、ひとつの段階を終えた瞬間というのは、意外とあっさり過ぎていきます。

仕事でもそうです。

大きなプロジェクトが終わっても、「じゃあ次お願いします」で終わってしまったりする。

でも、儀式があることで、そこに明確な「節目」が生まれる。

これは結構大事なことなのではないでしょうか。

人が集まることで、意味が生まれる

祭りと地鎮祭、上棟式。

一見するとまったく違うものです。

片方は大勢の人が集まって楽しむもの。

もう片方は、家を建てるための比較的小さな儀式。

でも、「人が集まって、同じ時間を共有する」というところでは、少し似ているように思います。

祭りでは、お囃子や掛け声が空間をつくります。

地鎮祭では、祝詞や儀礼によって、その土地でこれから始まることを意識する。

上棟式では、建物の骨格を前にして、家が形になっていくことをみんなで実感する。

つまり、儀式というものは「何かをすること」以上に、「その出来事に意味を与えること」なのかもしれません。

家は、工事をすれば完成します。

柱を建てて、屋根をつくって、壁をつくって、設備を入れれば、物理的には家になります。

でも、そこに暮らす人にとっては、ただの建築物ではありません。

「この土地に家を建てた」

「ここから家族の生活が始まる」

そういう物語があって、初めて「自分たちの家」になっていく。

その物語の途中に、地鎮祭や上棟式がある。

そう考えると、儀式って案外、暮らしにとって大切なものなのかもしれません。

効率だけでは測れないもの

今の時代、何かにつけて「効率」が求められます。

時間を短くする。

手間を減らす。

無駄をなくす。

もちろん、それはそれで大切です。

建築の仕事でも、効率化できるところはどんどん効率化したほうがいいと思います。

でも、効率だけで考えてしまうと、世の中から「なんとなく大切なもの」がどんどん消えてしまうような気もします。

祭りだって、効率だけを考えれば、あんなに大勢の人が集まって、道路を使って、お囃子を鳴らして……なんて、なかなか大変なことです。

「家で動画を見ていたほうが楽じゃない?」と言われれば、それはそうかもしれない。

でも、現地に行って、人の声を聞いて、暑さを感じて、屋台の匂いを嗅いで、「今年も夏が来たな」と感じる。

その体験には、効率では測れない価値があります。

家づくりも同じなのかもしれません。

地鎮祭をやったから家が丈夫になる、上棟式をやったから暮らしが快適になる。

そういう単純な話ではありません。

でも、その時間を過ごしたことが、後になって思い出になる。

「あのとき暑かったね」

「地鎮祭の日、雨だったね」

「上棟したときは、まだこんなに小さく見えたね」

そんな話が、何年後かにできる。

そういうものこそ、暮らしの中に残っていくものなのだと思います。

家は「建てるもの」であり、「思い出になるもの」

旭市七夕祭りを歩きながら、そんなことを考えていました。

祭りは、その日が終われば片付けられます。

屋台もなくなって、お囃子も聞こえなくなって、次の日にはまたいつもの街に戻る。

でも、そこにいた人たちの記憶には残ります。

「あの年の祭りは暑かったな」

「あの屋台で何か食べたな」

「あの人と一緒に行ったな」

そんな小さな記憶が積み重なって、毎年の祭りが自分の中の風景になっていく。

家も、少し似ているのかもしれません。

家は建物として完成した瞬間がゴールではなく、そこから生活が始まります。

引っ越した日。

初めてご飯を食べた日。

初めて庭に何かを植えた日。

子どもが壁に傷をつけた日。

休日に家族で昼寝した日。

そうやって、何でもない日常が積み重なって、ただの「建物」が「暮らしの場所」になっていく。

その最初の一歩として、地鎮祭や上棟式がある。

そう考えると、儀式というものも、決して古くさいだけのものではないのかもしれません。

むしろ、忙しくて何でも簡単に済ませてしまいがちな今だからこそ、「一度立ち止まって、その出来事をみんなで感じる時間」が必要なのかもしれません。

祭りを見ながら、そんなことをぼんやり考えていました。

……まあ、実際には暑くて、途中から「かき氷食べたいな」としか考えていなかった気もしますけど。

それでも、あの場所に流れていたお囃子や人の声を思い出すと、やっぱり「お祭りっていいな」と思います。

そして、家づくりにも、そんなふうに「あとから思い出せる時間」があればいい。

ただ家を建てるだけではなく、そこに至るまでの時間も含めて、ひとつの思い出になる。

そんな家づくりができたら、なんだか素敵だなと思うのです。